つくったもの。

最近はこんなことをしております。


D
DS-10】サイハテをカバーしてみた。【Stylophone】

初音ミクは楽曲よりもその文化の方に興味があって、それについて考えていることの方が
音楽を聴くことよりも多いんだけれど、「サイハテ」はとても良い曲だなあと思っていて、
そんな時にフルカワミキがカバーを出したりなんかしていて。
僕も何かやりたい!と衝動的に作ってしまった。スタイロフォンは良い音です。


D
AquesToneVista.(仮)

AquesTone*1は、すごくいい声だなって思っていて。
今年の初めからパソコンを使って曲を作ることを始めてみるにあたって実際に使ってみて、やっぱり良い声だなあ、と。
和音についてはサッパリなので、細かい音を抜き差しして作っていく方法を今後、目指してみることにします。
近いうちに完成形を…!

相対性理論がわからない。

シフォン主義
シフォン主義
posted with amazlet at 10.01.07
相対性理論
みらいレコーズ (2008-05-08)
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ここ数年ずっと思っているんだけれども、バンド:相対性理論って何であんなに人気なのだろう。
mixiコミュニティには3万人以上の人が参加しているし*1いしわたり淳治飯野賢治もブログで称賛している。
僕もふと思い出したように1stアルバム「シフォン主義」を引っ張り出しては聴くことがある。
けれどもその度に僕は不思議に思う。何だってこんなに人気があるんだろう、と。
勿論、魅力的な部分はたくさんある。
ボーカルの女の子の「サ行」を発音した時の空気混じりのかすれた感じだとか、
ブインブイン鳴るベースの音だとか、ポップすぎる曲調だとか、
「夏の黄金比」に入る男性コーラスのヘタウマ加減だとか。
しかし、だからと言ってそれらの集合体がここまでの人気につながっているとは言い難い。
何故なら、先入観を持たずに普通に聴こうと思えば普通に聞こえてしまうからだ。
けれども、僕は相対性理論を聴いてしまう。
それは何故だろう、と僕は考える。


相対性理論の魅力の一つとして歌詞がよく挙げられる。


飛んでったボイジャー 惑星破壊
なすすべないあなた サイコパス
環状線渋滞 先長い
待つのつらい私 ゲームボーイしてたの


北極星 超新星 流星群にお願いよ
誰か止めて あの子のスーサイド
新幹線 連絡船 運命線よおしえて
私明日は どこでどうしてるの


相対性理論/スマトラ警備隊

聴いてみるとわかるが、いわゆる「伝えたいこと」みたいなものが一切ないように感じる。
そしてだからと言って「伝えたいことなんて元からない」というシニシズム的でも無い。
適度に韻を踏みながら、言っていることの雰囲気は伝わりつつ、
結局意味が分からない、という具合がすごくいいなって僕は思う。


さて、少し脱線してこの「伝えたいことなんて元からない」というのを考えてみたいと思う。
「伝えたいことなんて元からない」というのに対して
「元からないけれど、「敢えて」それっぽいことを形として選択する」という消費社会的シニシズム
その「敢えて」が抜け落ちてベタにその形を選択するロマン主義シニシズムがある。
この二つはループ関係にあって、絶えず繰り返している。
→「伝えたいことなんて元からない」
→「でも敢えてそれっぽいことをする」
→「敢えてが抜け落ちてそれっぽいことがベタに選択される」
→ 一番上に戻る。   といった具合に。


宮台真司がポピュラー音楽が持つ機能を「シーンメイキング」「関係性提示」「お耽美化」「歌謡曲的ネタ化」として分析していて
僕もそれにはある程度は賛同しているのだけれど*2
こうやってシステム論的に(?)に分析されてしまうと、
「音楽なんてそういうもの」、そしてそれに対する「敢えて」による消費社会的/ロマン主義シニシズムの無限ループに陥ってしまう。


相対性理論が人気なのは、「ポップ」というアイコンと、
その「音楽なんてそういうもの」もしくは 「伝えたいことなんて元からない」という2つと
それに対する 「敢えて」によるシニシズムのループから脱却した、
絶妙なバランスによる歌詞とそのネタに対してベタともメタともとれる感じが受けているからなんじゃないか。
もしそうであるのならば、相対性理論の人気というのは
今の日本の音楽シーンが持つ前提(音楽なんて・・・/伝えたいことなんて・・・)に対する
リスナー側のある種のアンチテーゼとして取れるんじゃないか、と。


この不思議な「相対性理論人気」は、
ある種の変化の兆しなんじゃないか、と思いながら
僕はまた相対性理論を聴いている。

*1:2010年1月現在

*2:僕は実際に彼の本を読んだことが無いので、あくまで感覚的に。

痛みの感じる夢だった。

「それは巨大な蛸みたいなものなんだよ。自分の意思とは関係なく、一度その足に絡まれたら深い海に引きずり込まれておしまいさ」
 彼が左手に挟んだマールボロの先端が赤く光った。
吐き出された煙は少しの間そこに留まっていたが、やがて形を失った。
その煙の行き先について少し考えてみたが、結局わからなかった。
「それから逃れる術はない。ロシアンルーレットと同じだよ。運が悪ければズドン」
 彼は右手でけん銃の形を作ってこめかみへ当てながら言った。
私はそんなものなのか、と考えているフリをしながら空に目をやった。
 伸ばした綿のようにムラのできた灰色の雲が空を覆っていて、
その役割を思い出したように落とされた雨粒を私の頬が受け止めた。
「雨が降ってきた」と私は言った。
「気のせいさ」と彼は言った。
 私はもう一度曇り空を見上げてみた。雲はある。けれども雨は降っていない。
気のせいだったんだろうか。私は頬に指を当ててみた。頬は冬の風で乾いてカサカサになっていた。
「なあ、おれたちってどんな大人になると思う?」と彼は言った。
「知らないよ」と私は答えた。
 彼はつまらなそうにマールボロを地面に捨て足でその火を消した。
マールボロの吸い殻は、潰れたミミズの死骸のように、
そこに自分がいることを誰かに認めてもらう事すら諦めているように見えた。
ふと、それが自分の将来の姿なんじゃないだろうか、という思いが私の前を横切って、
背後からそれらが這ってくるような気味の悪い感覚が私を襲った。


 "それは巨大な蛸みたいなものなんだよ。自分の意思とは関係なく、一度その足に絡まれたら深い海に引きずり込まれておしまいさ"


 彼は笑いながら、右のポケットからくしゃくしゃになったマールボロのパッケージを取り出した。
「いい加減、煙草やめたら?」と私は言った。
「未成年の喫煙ってなんで駄目なんだろう?」
「体に悪いからだろ」
 彼は私の言葉の存在を認めつつも無視をして新しいマールボロに火を付けた。
「人の行動を制限するのは、道徳・法・市場・アーキテクチャの4つだ。もし本当に未成年の喫煙の問題を解決するのであれば、
道徳で"未成年は煙草を吸ってはいけない"と教え、法でそれを破ったら罰を与えて、
市場でそもそも子供が買えないような値段に設定して、
アーキテクチャで子供が煙草を買えなくする制度設計を行うべきだ」
「何が言いたい?」
「未成年は煙草を吸ってはいけない。というのであれば、それなりの方法はたくさんあるはずなのに、それらはほとんど行われていない。
つまりだ。子供が煙草を吸うと体の成長に悪いから、なんて言っているけれど本当は国家は子供の体のことについてなんてこれっぽっちも考えていないってことだよ」
「だから、自分は吸うと」
「や、でも一応は悪いことだと思っているから、こうやって屋上で隠れて吸っている」
彼はそう言うと決まりが悪そうに笑みを浮かべた。私もそれにつられて笑ってしまった。
「寒いから戻ろう。雨も降ってきた。」と彼は言った。
「気のせいだよ」と私は言った。
 相変わらずの空だったが、雨はまだ降りそうになかった。

モノクロパンダ


それは道端に落ちているボルトやナットを思い出させた。
そこにずっと前からあるにも関わらず、気づいてもらうことを諦めているようだった。
鈍く曇った灰色の空を見上げてそう思った僕は、上半身だけを起こした。
 そして、僕はあることに気づいた。
 初めに、まだ寝ぼけているのだろうと目をこすってみたが、見えている光景に変化はなかった。
次に、まだ夢を見ているのだろうと漫画みたいに頬を抓ってみたが、痛いだけだった。
最後に、僕はそれを声に出してみた。


 僕には色がない。


 それが、今日始まったことなのか、それとも今日気付いたことなのかを考えてみたが、うまくいかなかった。
ただそこには、自分には色がないという現実と、それに対してどうすることもできない僕がいるだけだった。
 ふと視線を自分の体から近くの笹の葉に移した。葉は昨日と変わらず緑色だった。
 白と黒が色として劣るのかはわからないが、
僕には白と黒しかないという現実の重さみたいなものは変わらず、
僕の背中にズシリと伸しかかった。
 頭の中まで色が無くなっちゃった、と自分でもうんざりするような冗談を浮かべながら、僕は友人の家へと向かった。


「よお。どうしたんだよ、そんな顔して」
 そう言った友人にも色は無かった。
たぶん、ずっと前から彼に色は無かったのだろう。
それに僕が気が付かなかっただけだ。
僕はそのことについて話した。鈍い空の色のこと。
変わらない笹の色のこと。自分に色が無いことに気がついたこと。
そしてそれは何故だろうかということ。
「それが何だっていうんだ。白と黒があるんだ。それで十分じゃねえか」
と友人は言った。
「でも」
「もし仮に俺が青色だったら何かが変わるのかい。そうじゃねえだろう?」
僕は何も言わず頷いた。   
 もし僕に色が与えられたとして何かが変わるのだろうか。
それとも髪の毛を切った日の気分を忘れてしまうように、いつかはそれに慣れて忘れてしまうのだろうか。
その違いについて考えてみたが、よくわからなかった。
わかったのは僕には色が無いし、それをどうすることもできないということだけだった。
「お前の言いたいことはわかるよ。でも、俺は白と黒で十分だと思う。お前はそれに疑問を抱く。そこには意味はない。それでいいんじゃねえか。十人十色って言うしな。ま、俺とお前は二色しか無えけれどよ。」
 彼はそう言うと決まりが悪そうに苦笑を浮かべた。それにつられて僕も笑った。
 「まあ、あんまり気にすんなよ。どうしようもないことは考えてもしょうがねえ」
僕の代わりに蛙がぐえーと返した。


 その日も僕は、家から少し離れた場所で相変わらずの空を見上げながら、相変わらずの疑問を頭に浮かべていた。
 きっと友人が言ったように、そこに意味はないのだろう。
いや、あったところでそれをうまく受け入れられる自信も無い。
それでも僕は考えることを止められなかった。
 やがて僕は、泥水の中へ飛び込んだ。
泥水は僕の予想したとおり、白と黒の体を茶色に染めた。
僕は初めて色を手に入れた。
 少しして蛙が一度だけ鳴いた。それを合図に雨が降り始める。
そして雨粒は僕の予想を裏切った。
雨に濡れて僕は白と黒の体に戻ってしまった。
手に入れたと思った茶色は僕のものではなく泥水のものだった、と僕は気づいた。
喪失感が僕の背中に伸しかかり、しばらくの間動くことができなかった。
 雨が目に入り、僕は我に帰った。雨はさらに強くなっていた。
僕は家へと向かった。
その途中、足を滑らせ、僕は意識を失った。


 突き刺すような鋭い痛みに耐えながら、僕は上半身だけを起こした。そして自分の体に色があることに気付いた。
それが泥水や雨のものでは無いことを僕は知っていた。
 僕に色が無かったことに意味がないとするならば、僕に色があることにも意味がないのだろう。
全てにおいて、先ず現実があって、それに対してどうにか折り合いをつけていかなければならない。


 神様が気まぐれで僕に色をくれたんだ。


 僕はそういうことにして、目を閉じた。
 雨はもう少し降り続きそうだったが、いつ止んだのか僕は知らない。

「僕」と「俺」。

普段、日常での一人称は「俺」なのだけれど、こうやって文章を書くときは「僕」を使っている。
それがいつからなのかも、何故使い分けるようになったのかも、覚えていないんだけれど
たぶん、そっちの方が頭が良さそうに見えるだとか、村上春樹の作品に影響されてとか、大した理由では無かったと思う。
僕はいつも「僕」を使って自分の中の残念な自意識をまき散らすような酷い文章を書いているので、
自分の中に対する「僕」と人に対する「俺」と言うように、意識的にではないが何処か使い分けていたところが自分の中にあった。


僕は予備校に行かずに浪人生をやっているので、
月に数回は友人とかと会って近況報告をしたり愚痴を言いあったりはしているものの、
家族以外の人と面と向かって会話をしない日の方が圧倒的に多い。
その代わりと言うのもおかしな話だが、相対的にメールやミクシイ・ツイッターなどでコミュニケーションをすることが増えた。
ミクシイやツイッターでのコミュニケーションと言うのは、不特定多数に対してとりあえず自分から発信をして
それに対してレスポンスを受けることで成り立つので、基本的には「僕」を使う。


今までは学校やバイト先などのコミュニティがあることが前提としてあって、自分に対する「僕」と人に対する「俺」が分けられていたが、
そのコミュニティから抜けて、自分から発信してそれに対するレスポンスを受けると言うコミュニケーションが主となったとき、
人に対するのが「俺」では無く「僕」になってしまっていると感じることがある。
けれども、面と向かって会話をしたときに使う一人称は「俺」のままなので、人に対するのが「僕」と「俺」の二人になってしまっている。
それは多分、どちらかの一人称に統一すればいいという問題では無いと思う。


以前書いた「初音ミクとキャラクターとコミュニティ。」*1という記事で少し取り上げた機材Pの問題*2にもリンクしている
「自分」と「自分というキャラクター」の力関係と言うのは、
ネットの普及(ブログやミクシイ、あるいはニコ動等の自己表現の場の普及)によって支えられているものほど
自分の置かれている環境が変わったときに、苦しいものになってしまうんじゃないだろうか。

*1:http://d.hatena.ne.jp/harmkia/20090616

*2:これについてはシロクマの屑籠(汎適所属):全裸になったのは“草磲 剛のなかのひと”であって、“草磲 剛”というキャラではないhttp://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20090423/p1

蝉の声で思い出すこと。

「一人で死ぬことなんてちっとも怖くない。
だけど、ねえ、一年に一度でいい。一分でも、一秒だっていい。
自分が死んだあと、生きていた日の自分を思い出してほしいと願うのは、そんなに贅沢なことなのかい?
死んだ途端に、はい終わりじゃ、だって、あんまりにも寂しいじゃないか」

夏と言うとやっぱり「死」という言葉が思いつく。
それは最近読んだ小説のせいかもしれないし、僕が経験した唯一の身近なそれが夏だったからかもしれない。
蝉の声を聞いてこの台詞を思い出した。本多孝好の短編「蝉の証」。


「死」と言って、思いだしたことがある。
夏目漱石の「こころ」に出てくる友人はKは遺書に「私(先生)」のしたことの一切を書かなかったということ。
高校時代、教科書に載っていたのをきっかけに文庫本で読んだのだけれど、その時はこの点がどうしても理解できなかった。
友人Kは家族の縁を捨ててまで"道"を究めようとした。そしてそれを捨ててまでお嬢さんを愛した。
けれども「私(先生)」の裏切りによってすべてを失った。家族の縁もお嬢さんも親友もそれまで積み上げてきたものも。Kには何も残っていなかった。
だからこそ、と僕は思う。何も残っていないのならば、事実を書くのが普通だと思う。もっとも僕が考える普通でしかないんだけれども。
しかし、Kは書かなかった。それどころか「もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろう」とまで書いた。


Kはたぶん、そうすることで「私(先生)」の中に残ろうとしたんじゃないか。勿論、それだけでは無いにしても。
例えば、その後お嬢さんや「私(先生)」の元を去ってどこかで暮らしたからといって
そこでまた新たな関係性を構築できるとは限らないだろうし、一度失ったものを取り戻すことは難しい。
下手をしたらそのまま独りで死ぬことだってあり得る。いや状況から行ったらそうなる確率の方が大きいと考えたのかも知れない。
そこで冒頭のセリフへと繋がる。一人で死ぬことは怖くない。けれど誰からも忘れられてしまうのは怖い。


死と言うのは瞬間的なものでは無くて、同じく本多孝好の言葉を借りるなら「死は生のピリオドではなく、そのエピローグとして存在している。」なんだろう。
人は生きたようにしか死ねない。死との折り合いの付け方。まだまだ死ぬ気は無いけれど、そういうことも考えておかなければいけないんじゃないか。


そんなことを高校時代に授業も聞かずぼんやり考えていたこと思い出した。*1

*1:その結果、僕が今この状態にあると言うことは言うまでも無く。

体系的な知識についての雑文。

さて、選挙権のない年齢で加えて政治のことなんてサッパリな人間が
政治を語るなんて恥ずかしすぎてやりたくは無いんだけれど、少し思うこととリンクするので整理がてら書きたいと思う。


都議選で民主党が圧勝して、まあこのまま行ったら政権交代かしら、なんてしがない浪人生ですらそう思う訳だけれども
例えば郵政選挙で小泉元首相が「郵政民営化に賛成か反対か」という一点のみで歴史的大勝収めたように
今回も「自民党が駄目だから民主党か」という一点のみで総選挙が行われるのであれば
それは何にも変わらないじゃないか、と僕は思っている。
だから政党よりも人で選ぶべきだ!なんて一丁前のことをたまに言ってしまうんだけれども
その前にそもそも投票権を持つ人がどれほど政治について知識があるかという問題が見えてくる。


例えば、僕は平成生まれで記憶の中で一番古い総理大臣は小渕さんだ。その前が橋本さんでその前は知らない。
代わる代わる行われた政党の分裂・統合のことなんてサッパリだ。
それについて勉強しようとしても、平成21年にもなると結構な量になっているから、どこから手をつければいいのか分からない。そして新しいことは日々増えていっている。
時間が必要になってくる。個人にとって政治云々よりも重要なことは嫌というほどある。だから結局勉強できていない。
そんな状態の人があと2年で選挙権を得てひとりひとりの一票は大切だ!じゃあ投票に行こう!って思ったときに
その基準になるものってその時のネットかマスメディアかの情報に絞られてしまう。
けれどもそれはやっぱり情報の発信者の都合のいいようにバイアスが掛けられているから情報の取捨選択が必要になってくる。
そしてその情報の取捨選択に必要なのが、歴史的な体系的にまとめられた知識なんじゃないかってところに辿り着く。


だからどんなに知識人が口を酸っぱくして「民主党は危ない!」「自民党じゃだめだ!」「今こそ共産党に!」とか言っていても
一般人はそれを判断する基準がないのだから結局はイメージや雰囲気によって流されてしまうんじゃないだろうか。
知識人の言葉ってなんだかもっともらしい説得力があるしね。



話がそれてしまったんだけれど、僕が言いたかったのは音楽の話で、例えばバンプオブチキンを好きな高校生が
もっと色々と聞いてみようって思ったときにアジカン、ラッド、凛として時雨という感じに聴いていくという以外の方法はないもんかねと思っていて
けれども例えばビートルズストーンズを聴いて行ったとすると、その間に出てくる新しいロキノン系まで聴くのは難しくなる。
一回、時の流れを止めて60年代から聞いていくというのが出来ればいいんだけれど、それは不可能なわけで。
僕もビートルズはオリジナルアルバムをほとんど知らないし、ストーンズキンクスはベスト盤1枚だけ。フーはそれなりに聴いているけれどまだまだ足りない。
ゾンビーズタートルズは名前しか知らない、という具合で70〜80年代はさっぱりだ。
全てを投げ出してずっと音楽を聴いていったら出来るかも知れないけれど、僕にだって生活はある。
そういうように、若い世代は体系的な知識を持つ人はものすごく減ってきていると思う。
音楽にしても政治にしてもそういった体系的な知識というのは、何かを判断する基準になると思っているから、
誰かそういうまとめサイト的なもの2〜3個くらい作ってくれないかなあ。