キャラクターを介した自己承認。

真夜中の五分前―five minutes to tomorrow〈side‐A〉 (新潮文庫)
本多 孝好
新潮社
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本多孝好の「真夜中の五分前」を読む。
本多作品の少し斜に構えた主人公や回りくどく皮肉っぽい言い回しに毎度のことながら勝手に共感を覚えた。

自分によく似た心理状態のキャラクター・自分と似た境遇のキャラクターに対して
“あたかも自分自身であるかのように”感情移入できる人なら、そのキャラクターを自分自身の映し鏡として、
いくらでもナルシシズムに耽溺することが可能だったりする


俺の妹がこんなに可愛いわけがない』にみるオタクナルシシズム―シロクマの屑籠(汎適所属)
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20090205/p1


「共感」と言うのは、ある種の自己承認だと思う。
上のリンク先の「キャラクターを介した自己陶酔」というのは、アニメ・漫画に限らず、
ドラマや小説や音楽といったいわゆる「オタク文化」以外にも当てはまっていて、ものすごく納得してしまうんだけれど、
個人的には「自己陶酔」というよりは「自己承認」に近いんじゃないか、と思う。
登場人物に共感し擬似的にでも同化してしまえば、それに好意を抱く人から間接的に承認を得ることができる。
「この作品は人気なのだから、登場人物に共感する自分も受け入れてもらえる」といった具合に。
「自己陶酔」は自分一人でもできるけれど、「自己承認」というのは他の誰かが必要になってくる。
そしてその多くの場合、「他の誰か」が誰なのかが重要になってくる。
けれどもこうした「キャラクターを介した"自己承認"」ならば、他の誰かは割と誰でも良くてそこに人がいてくれればいい。
そういったものにウンザリすると同時に、それによって少しでも救われたというのはやっぱり事実で「それを気持ち悪い」ということは僕にはできない。
ただ一方で、そこだけに特化したような作品がわんさか出てくるのも、何か違うと思う。結局、大切なのはバランスってことなのかなあ。