蝉の声で思い出すこと。

「一人で死ぬことなんてちっとも怖くない。
だけど、ねえ、一年に一度でいい。一分でも、一秒だっていい。
自分が死んだあと、生きていた日の自分を思い出してほしいと願うのは、そんなに贅沢なことなのかい?
死んだ途端に、はい終わりじゃ、だって、あんまりにも寂しいじゃないか」

夏と言うとやっぱり「死」という言葉が思いつく。
それは最近読んだ小説のせいかもしれないし、僕が経験した唯一の身近なそれが夏だったからかもしれない。
蝉の声を聞いてこの台詞を思い出した。本多孝好の短編「蝉の証」。


「死」と言って、思いだしたことがある。
夏目漱石の「こころ」に出てくる友人はKは遺書に「私(先生)」のしたことの一切を書かなかったということ。
高校時代、教科書に載っていたのをきっかけに文庫本で読んだのだけれど、その時はこの点がどうしても理解できなかった。
友人Kは家族の縁を捨ててまで"道"を究めようとした。そしてそれを捨ててまでお嬢さんを愛した。
けれども「私(先生)」の裏切りによってすべてを失った。家族の縁もお嬢さんも親友もそれまで積み上げてきたものも。Kには何も残っていなかった。
だからこそ、と僕は思う。何も残っていないのならば、事実を書くのが普通だと思う。もっとも僕が考える普通でしかないんだけれども。
しかし、Kは書かなかった。それどころか「もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろう」とまで書いた。


Kはたぶん、そうすることで「私(先生)」の中に残ろうとしたんじゃないか。勿論、それだけでは無いにしても。
例えば、その後お嬢さんや「私(先生)」の元を去ってどこかで暮らしたからといって
そこでまた新たな関係性を構築できるとは限らないだろうし、一度失ったものを取り戻すことは難しい。
下手をしたらそのまま独りで死ぬことだってあり得る。いや状況から行ったらそうなる確率の方が大きいと考えたのかも知れない。
そこで冒頭のセリフへと繋がる。一人で死ぬことは怖くない。けれど誰からも忘れられてしまうのは怖い。


死と言うのは瞬間的なものでは無くて、同じく本多孝好の言葉を借りるなら「死は生のピリオドではなく、そのエピローグとして存在している。」なんだろう。
人は生きたようにしか死ねない。死との折り合いの付け方。まだまだ死ぬ気は無いけれど、そういうことも考えておかなければいけないんじゃないか。


そんなことを高校時代に授業も聞かずぼんやり考えていたこと思い出した。*1

*1:その結果、僕が今この状態にあると言うことは言うまでも無く。