SUPERCAR/B

B

B


SUPERCARのB面集「B」をやっと聴く。
オリジナルアルバム7枚は全て持っているけれど、どうしてもこれだけは聴けずにいた。
なんとなく、聴いてしまったらスーパーカーというバンドが終わってしまう気がして。


DISC-1のM-1〜M-6までは1stアルバムやベスト盤に収録されていたので知っていたが、それから先は本当に知らない世界。
05年02月に解散してからもう4年経ったが、「聴いたことのないスーパーカーの楽曲」が嬉しくてしょうがなかった。
最後のアルバムになった「ANSWER」期に書かれた楽曲の完成度とポップさが本当に素晴らしい。
アルバムはどちらかというとポップさよりもミニマルでダークな雰囲気があって、賛否両論だったのだけれど
シングル曲とアルバム内のポップな曲(「FREE HAND」とか「HARMONY」とか)とこの数曲で構成されたアルバムだったら
評価も変わってきたんじゃないかなとチラッと思った。*1


そう言えば、家のCDコンポで聴いた時にDisc-2のM-4「UNIVERSE」が1分ちょいあたりから上手く読み込まず
何度も同じ所を繰り返していたんだけれど、それがぶっ壊れたリミックスみたいな感じでカッコ良かった。
そういった意味でも良いアルバムです。

*1:とはいえ、僕は「ANSWER」が一番好きです。

僕とトモさん その2。

以前書いた「僕とトモさん。」という記事*1は、多少の補正を除けば、いちおう僕の実体験だ。
糞とまではいかないけれど学校が好きではなかったし
「社会科見学」と称してふらふらしたりライヴに行っていたことも本当だ。
中打ちに参加していろんな話を聞いたのも事実だし
そこであったわけではないけれど「トモさん」(正確には「トモちゃんさん」と呼んでいて、
お勧めされたのはコールドプレイとニューオーダー。どちらもまだまともに聴いていない。)は実在する。
そして「トモさん」ではないが女の子と2回だけウダウダしたことも夢ではないし
ケータイが壊れたのも、そのバンドが活動休止だったのも本当の話だ。


一応どれも実話なんだけれど、それは一つの物語の中で起こったことでは無くて
僕がここ数年で経験した別々のレイヤーの上で成り立った出来事をひとつの物語に再構築したものだ。
したがってあの話に登場する「僕」は僕では無くて「僕'」で
「トモさん」は実在する「トモちゃんさん」と「僕が一緒にウダウダした女の子」に分裂して
それぞれ「トモさん'」「トモさん''」となる。


とまあそんなのは割とどうでも良くて、僕が考えているのは
こんな風に別々のレイヤーの上に成り立つものを再構築するだけで、「事実をもとにした物語」は作れてしまうんじゃないか、ということ。
06年の年末に行われた「最も感動した小説ランキング」*2では、「恋空」をはじめとする
「事実をもとにした〜」という小説が上位をランクインしている。
そしてそれに対して「ノンフィクションならではの〜」という声もあるという。
「恋空」の非現実性について今更とやかく言うつもりは無いんだけれど、
事実をもとにした物語にノンフィクションならではの〜という声は間違っている気がする。
新撰組」や「タイタニック」は過去にあった出来事もとにして作られているけれど、それをノンフィクションと捉える人は少ない。
けれども、ケータイ小説に関しては特に「リアルさ」や「現実にありそうな感じ」が強調され、それに親近感を抱く人すらいるらしい。


ケータイ小説に関しては、僕が勉強不足なのともう既に語りつくされている感たっぷりなので、書くことはないけれど
何かしらのツールを使って、物語内に入り込んで現実逃避をしたがるのは、オタクも女子高生も変わりないってことなのかなあ*3

*1:http://d.hatena.ne.jp/harmkia/20090326/1238056483

*2:http://www.oricon.co.jp/news/love/39433/

*3:こう書くと上から目線的で嫌なんだけれど、それは僕も同じです。現実逃避大好きです

ダルマの恩返し。

人通りの少ない細い道にダルマは立っていた。
突如、出現したダルマに地元の住民は困惑し、その珍しさから全国紙の社会欄のネタにもなったが
元からほとんど人が通らない道だったということと、ダルマというある種神聖な存在に手を出すということに恐れた人々は
仕方なくそのままダルマを置いておくことにした。
世界的恐慌や隣国のミサイル実験、国内外における格差の広がり。
人々が悩まなくてはならない問題は山ほどあり、不思議なダルマにかける時間は相対的に少なくなっていった。
ネット上での祭りも落ち着き、これは神からの警告である!と騒いでいた団体もいつの間にか、
不正を行った政治家批判へと方向転換していた。


ダルマが現れてから3か月が経った。
すっかり過去のものになってしまったダルマだったが
全ての人から忘れられたわけでは無かった。
地元紙には一か月に一度くらいのペースでその後の様子が写真付きで伝えられていたし
騒ぎが落ち着いた後でも悪戯されることもあった。
今ではすっかり色あせ、少女漫画みたいな目と凛々しい眉毛を付けくわえられたダルマは
それでもなお細い道に立っていた。


ある雨が降った日のこと。
「ねえ、何でそんなところにいるの?」
少年はダルマに話しかけた。勿論、返事はない。相手はダルマだからだ。
ダルマには口が無い。目は口ほどにものを言うとはいえ、キラキラした瞳と凛々しい眉毛が発するメッセージを
受け取れるほど少年は聡明では無かった。
「寒くないの?」 
少年は続ける。返事はない。
その後も何度か当たり障りのない言葉を掛けて見たが、ダルマがそれに対して何かしらの反応を見せるということは無かった。
とうとう諦めた少年は、文字通り無口なダルマを蹴飛ばしてやろうと思い足を上げたが
そのままの姿勢で時を止め、代わりに持っていた傘をダルマが雨に当たらないように地面に置いた。
この時、少年の頭の中には「もしかしたらダルマが恩返ししてくれるかもしれない」という昔話に基づいた子供らしい考えが確かにあった。
帰り際に、ちゃんとこの恩は返せよ。と念を押そうかと考え、止めた。
家に着いた少年は、ずぶ濡れの体と無くした傘のことで母親に怒られたが、それでもきっとダルマが恩返ししてくれると思い我慢した。



それからもう3年が経つが、ダルマからの恩返しはいまだに無い。

ロボットと初音ミクとニンゲン。

Amazonが僕に「おすすめの商品」を紹介してくる。
この「おすすめの商品」は、僕が買った/見た商品の履歴から
関連するものを紹介しているだけ(だと思う)なのに
たまに、とんでもないものを紹介してきたり、コイツできる!って思うことがある。
Amazon側に人間的な感情など無く、単なるプログラムにしか過ぎないのに
それを受け取る人間側は、それにどこか人間的なものを感じてしまう。


A・C・クラーク著「2001年宇宙の旅」に登場する人工知能を持つコンピュータ:HAL 9000は
旅の途中で異常をきたし、機能停止させられてしまう。
このシーンは個人的にとても好きで、読むたびに泣きそうになってしまうのだけれど
結局、そのバグは0と1でしかなくて
それを人間が「人間らしいもの」としてとらえているにすぎない。
あくまでHAL9000はロボットであり、人間によって作られたものだから。


AmazonHAL9000に並んで、もっとわかりやすいのが「初音ミク」なのだと思う。
初音ミク自体はソフトと簡単なプロフィールしか公開されていないのだけれど
ニコニコ動画などを通じて「ネギが好き」といった追加情報や「弱音ハク」などの派生キャラが生まれてきた。
初音ミク自体はただのソフト(実際の人間の声をサンプリングしているにしても)に過ぎないのに
使う人およびそれを見る・聴く人によって、キャラもしくは一人の人間として作られていく。


最近、浪人生ということもあって、以前にも増してメールやブログなどを使って人と繋がることが多くなった。
感情を文字にしてキーボードを打つ。文字は0と1の羅列に変わる。
そうやってコミュニケイションがどんどん記号化されていく。
別に目の前に人間がいなくても、擬似的なコミュニケイションで満足できる。
SFチックな話になるんだけれど、たとえば他愛のない内容に返信されたメールの送り主が人間では無くて
自動返信ソフトか何かだったとしても、それを調べる方法がない以上確認できない上、
おおくの場合が「返信が来る」という時点で満足してしまうので、疑問に思うことは少ないのだろうと思う。
そういう記号的なコミュニケイションが良いか悪いかは別としても、それによって救われたり安心できたりすることも事実だったりする。


先日、買いものをしたスーパーのレジの人が、ロボットみたいにカクカクした動きで少しだけ和んだ。
これじゃあ、どっちがニンゲンでどっちがロボットだかわからないね。

浮遊感と歪み。


My Bloody Valentine/To Here Knows When


マイブラは前にCDを借りたんだけれど、パソコンが壊れていて取り込むことができず泣く泣く返却した思い出がある。
そんな思いを晴らすため、最近youtubeで聴きまくっている。お金入ったらシガーロスと一緒に買お。