自己表現と残り続ける私。

一億総表現社会らしい。
ライヴハウスでは毎日たくさんのバンドがライヴをしているし
マイスペースには楽曲が、YOUTUBEにはライヴ映像が日ごとにアップロードされ増えていく。
それだけでは無い。
pixivにはイラストが、Twitterにはつぶやきが、ブログにはその人の生活や考えが日々アップロードされている。
最近ではそれらがきっかけで、メジャーデビューしたり、アニメーション会社に就職したり、本を出版したりすることも珍しくない。
表現で飯を食うのは厳しい時代ではあるが、表現でおやつを買うくらいなら簡単になりつつあるのかもしれない。
こうした流れに対して「クリエイティヴでいいじゃないか」という声や
「一般人の自己表現なんて興味ねーよ」という声もあって賛否両論らしいが
個人的にはそんなことどーでも良くて、面白ければいいと思っているんだけれど
一方で、彼ら(僕も含む)はその自己表現にどうやって折り合いを付けていくのか、というのを考えなければいけない気がする。


そう言えば、スーパーカーのナカコーが解散インタビュー時にこんなことを言っていた。

「(解散をすることで)失うというのはあまり感じない。覚えているから。どんなふうに曲ができたかとか、どんなハコでやったとか。バンドが数年間こういう活動したっていうのは残るから」


細かなニュアンスは異なるかもしれないが、大体こんな感じだ。
音楽は残る。それは一見、素敵なことのように思えるが、同時に消したい過去は消えないということでもある。 *1
ウェブ上で不特定多数の人にみられるというのなら、なおさらに。
ニコニコ動画の「歌ってみた」や「踊って見た」系の動画を見ると何とも言えない感情になるのは
いつか彼らの考えが変わったときに、そこにあり続ける「私」とどうやって折り合いを付けるのか、
というのが気になってしまうからだと最近思うようになった。


簡単に表現を発信できるような環境が整いつつある一方で
まだどこかウェブを現実と切り離して考えようとしている。
そんな中で残り続ける自己表現(という私)をまき散らしていったとき、最終的に残るのはなんだろう。

・・・というこの文章もいつかは「恥ずかしい過去」になるんだろうなあ。

*1:そう言えば、昔ナカコーが「バンド時代の原盤を燃やした音でCDを出したいと言っていたっけ。冗談だろうけれど。

キャラクターを介した自己承認。

真夜中の五分前―five minutes to tomorrow〈side‐A〉 (新潮文庫)
本多 孝好
新潮社
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本多孝好の「真夜中の五分前」を読む。
本多作品の少し斜に構えた主人公や回りくどく皮肉っぽい言い回しに毎度のことながら勝手に共感を覚えた。

自分によく似た心理状態のキャラクター・自分と似た境遇のキャラクターに対して
“あたかも自分自身であるかのように”感情移入できる人なら、そのキャラクターを自分自身の映し鏡として、
いくらでもナルシシズムに耽溺することが可能だったりする


俺の妹がこんなに可愛いわけがない』にみるオタクナルシシズム―シロクマの屑籠(汎適所属)
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20090205/p1


「共感」と言うのは、ある種の自己承認だと思う。
上のリンク先の「キャラクターを介した自己陶酔」というのは、アニメ・漫画に限らず、
ドラマや小説や音楽といったいわゆる「オタク文化」以外にも当てはまっていて、ものすごく納得してしまうんだけれど、
個人的には「自己陶酔」というよりは「自己承認」に近いんじゃないか、と思う。
登場人物に共感し擬似的にでも同化してしまえば、それに好意を抱く人から間接的に承認を得ることができる。
「この作品は人気なのだから、登場人物に共感する自分も受け入れてもらえる」といった具合に。
「自己陶酔」は自分一人でもできるけれど、「自己承認」というのは他の誰かが必要になってくる。
そしてその多くの場合、「他の誰か」が誰なのかが重要になってくる。
けれどもこうした「キャラクターを介した"自己承認"」ならば、他の誰かは割と誰でも良くてそこに人がいてくれればいい。
そういったものにウンザリすると同時に、それによって少しでも救われたというのはやっぱり事実で「それを気持ち悪い」ということは僕にはできない。
ただ一方で、そこだけに特化したような作品がわんさか出てくるのも、何か違うと思う。結局、大切なのはバランスってことなのかなあ。

初音ミクとキャラクターとコミュニティ。

http://anond.hatelabo.jp/20090331142111

383 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/30(月) 14:24:36 id:rPNli/5OO
例えば俺の話だが
ミク関係ない曲をせっそと作ってた時期は付いた感想が
「つまんね」「糞J-POP乙」だったわけだが
ミクを使った途端に
「いいね」「神曲
となった時には本当に世の中音楽で聞いてる人間いるのかな?
と疑問に思いましたよ。
たぶんここの住人も俺のミク曲聞いた事ある人あるかもねね。
まさに疑心暗鬼ですね。音楽ってどうでもいいんじゃね?と。


以前、記事にも書いたように*1「キャラクターとしてつくられていく初音ミク」というのは、それはそれで面白いと思うんだけれども
初音ミクの楽曲自体に面白さや魅力を感じることは、個人的にはあまり無くて(初音ミクの曲をあまり聴いていないってのもあるんだけれど)
もし初音ミクの有名な曲がボーカルがエイベックスの女性歌手やアイドルグループで、有名な作曲家が作ったものだったら
僕は好んで聴きたいとは思わないかなあ。
ニコニコ動画を中心とした初音ミク(ボーかロイド)文化の面白さは



・市販の楽曲のようなクオリティーの高い楽曲を、プロでは無い人が作るという点
初音ミクというキャラクター的要素を多数の人が作り上げていくという点


だと僕は勝手に思っている。
後者については、舞踊家yumikoさんもインタビューで同じようなことを言っている。

初音ミクの人格(定義)形成経緯とその存在はとにかく特殊で何一つオフィシャルなものがないんですよ。
あるのは、たった一枚のイメージだけ。
音声ソフトの箱のやつね、それと名前と、身長と、体重と・・・本当にそれしか情報がないんですよね。
まあ、ちっちゃいロボットなんですけど彼女。今日”人権”を獲得してるんですよねw
もちろん人々の心の中での話ですけど、でもそれって人権の基本でしょ?

個人的に面白いと思うのは、エイベックスの新人アーティストGIRL NEXT DOOR初音ミクをはじめとするボーカロイドとの関係だ。
GIRL NEXT DOORは08年にエイベックスから「大型新人」としてデビューし、ニコニコ動画ともリンクしたイベントをしたアーティストだが
いかにも!な曲調や強引とも思えるプロモーション、不自然な売上などの理由から、動画には批判的なコメント・タグが付くことが多い。
しかし一方で、GIRL NEXT DOORの楽曲をボーカロイドに「歌わせてみた」という動画には批判はあまりされず、むしろ「こっちの方がいい」や
初音ミク(または鏡音リン)かわいいー」といった肯定的なコメントがよく目につく。
勿論、再生数・コメント数に差があるし、一概に「初音ミクを使うと肯定的なコメントが増える」とは言えないが、この差に僕は違和感を覚えた。


そう言えば、少し前に問題になった機材Pの発言*2の中に、少し引っかかるものがあった。
ブログが消えてしまったので、詳細は曖昧だが「結局、音楽よりもそのコミュニティに参加したいだけでしょ?」というような内容の発言だ。
ニコニコ動画というサイトの特徴上、そこにある種のコミュニティができるというのは不可避なことで、
それによって前述の「キャラクター的要素が多数によって形成されていく」ということが起きると思うんだけれど
その一方で盲信的というか、GIRL NEXT DOORとの関係のように「初音ミクならばいい」という傾向が表れているとも言える。


そういったキャラクター文化や作品に対するコミュニティなんかは、別に真新しいものでは無いし
現実の音楽業界にも存在するものだと思うんだけれど、ニコニコ動画の多くは「ただの一般人」が曲を作り発表しているから
なんだが新鮮に感じた。

ウェブ炎上を読む。

荻上チキの「ウェブ炎上」を読む。
この本ではウェブの特徴を「可視化」と「つながり」とした上で
実際に起こったウェブ上の「炎上」「祭り」を例に
サイバーカスケードのプロセスや問題点などを挙げている。
理解できたかは別として、とても読みやすかった。


「可視化」と「つながり」によって、「法」や「道徳」が過剰していき炎上となるといった流れは
ちょっと前のニコニコ動画で起きた「中村イネ喫煙疑惑事件」を例にするとわかりやすいかも知れない。
この事件は、ニコニコ動画で有名な人達が集まるイベントで
参加者の日記で中村イネ(馬のマスクをして様々な楽器を一人でこなすすごい人。未成年。)が楽屋でタバコを吸っていたという記事が書かれ問題となった。
これが原因となり、彼のブログは炎上、またその日記を書いた参加者にも批判は広まった。
未成年の喫煙は、確かに法律違反だが、だからと言ってそれを理由に一方的に攻撃をしていいかということにはならない。
にもかかわらず、このような事件が起きたのは、「法」や「道徳」の過剰(=違反者は悪いやつだから、非難されてもしょうがない)が原因と僕は思えた。
それを著者は「疑わしきは罰せず」から「疑わしきはパッシング」と言っている。


最後に著者はウェブによる社会の変化についてこう言っている。

・これまでも起こってきた現象が、これからも形を変えて起こり続ける。
・これまでも起こってきた現象が、これからは形を変えて起こり続ける。


ここ最近、ずっとウェブ関係の本を読んできて、インターネットの登場(一般化?)以前と以後の違いについて考えていたんだけれど
これを見てちょっとだけ納得した。
育成ゲームは命の大切さの認識を壊すだとか、残虐ゲームは事件を誘発するだとか
テレビを見ていると馬鹿になるだとか
新しいものについて今までも様々なとんでもない(ネガティヴな)意見と言うのは出てきたけれど
今までは、なんとかそれらに適応して生きている。
その「形を変えて」と言うのが、どのようなものになるにしろ、きっと上手くやれる、そんな気がした。

eno talkが面白い。

飯野賢治さんのブログでやっているeno talkが面白い。
例えばラジオというメディアはよく「話し手が身近に感じられるメディア」と言われるけれど
このeno talkは、話し手の方を向いていない。
飯野さんとゲストの方(第一回目は坂本教授!)の会話を盗み聞きしている感じ。とても面白いです。


eno blog→eno blog

自己表現とか。

Lifeの「表現する人・したい人」の回を聴く。
一応、僕もこうやってブログに文章を書いたりmyspaceにしょうもない音楽を上げたりしているから
一端の「表現する人・したい人」になるのかも知れないんだけれど、
個人的な感覚では表現したいことなんてないし、それによって他人に伝えたいとか繋がりたいとかそういったものは無かったりする。
勿論、音楽や文章を褒められたり、書いていることに対して色々な意見をもらえるのはとてもうれしいのだけれど
「環境」があるからそれをするという感覚の方が僕の中では大きいと思う。


聴いていてチラッと思ったのは、野球がやりたいと思ったらバッティングセンター行くとか草野球チーム組んだりするとかで
別にプロ野球選手にならなくても、野球を出来る環境がそれなりあって
音楽や文章でもその「バッティングセンター」とか「草野球場」のような環境が整えられて来て
別にデビューをしなくても、簡単に多くの人に音楽や文章を聴いて/見てもらうことができる。
だからミュージシャンや作家もプロ野球選手のようになっていくんじゃないかなあ、ってこと。
今以上にプロとアマの差が開いて、別々の文化ができていったら面白いんじゃないかなと思った。


佐々木さんの「成功しないものはやりたくないというのは、やりたいことに入っていない」という言葉が特に残った。
うん、確かに!